セッションの監督デミアン・チャゼルさんの2作目となる作品がアカデミー賞の作品賞を逃したところ。
2作目ってそんなんほんとじゃないと思うんです、不遇の時期はいわゆる黒歴史にしてしまっているんだと思うんです。
だからこそのこの作品なんじゃないだろうかって思うわけですよ。夢のような。ロサンゼルス。
監督も、話に聞くとあれです、資金繰りに結構難儀したそうで、やりたいことの熱意がようやく実を結んだ時には
マイルズ・テラーもエマ・ワトソンも出演ができなくなってしまっていた。っていう話もあり。
来るべき時に夢は来るんだけれども、あとは、タイミングととのチケットを受け取る勇気。
まぁ、そんなこんなでスパイダーマンに助けられる女の子エマ・ストーンと、
ブルーバレンタインで地獄を見せたライアン・ゴスリングに決まりったんだとさ。
ただ、エマ・ワトソンは整いすぎてて自信に満ち溢れていて失敗しなさそうだし、
マイルズ・テラーもジャズっぽくないし女の子が恋に落ちなさそうな顔をしているし。
失礼があったら詫びるんだけれど、セッションの時のマイルズ・テラーはなかなかにいい匂いがして素敵でした。
そんないい匂いがする男性が、主人公が恋に落ちていくというジャズピアニストにはあんまり向かない気がするんです。
私思うに、主人公はエマのミアであって、ゴスリングのセブじゃないと思うんです。
二人ともを主人公にしてしまうと、ラストシーンでエマボッコボコにされてしまいそうだから。
僕が男だからだとも思うんですけども、どっちにしたってボッコボコにされるんだろうと思うんだけれど。
まぁ、でも、僕はそんな、ボッコボコにはされませんでしたけどね。どこか、鈍感だったのかもしれない。
さて。
物語に関して言えば、結末だけ黙ってればネタバレにもならないくらいの、ありきたりなストーリーですね。
都会に出てきた夢を持った女の子が、あれこれしながら、夢と恋とを天秤にかけて、うまくいったりいかなかったり。
そんな感じのストーリー。だから、ストーリーは、確かに特筆するべきところも確かにたくさんあるんだけれども、
そんなに触れずに、書いていこうと思います。もうこれは僕個人の覚書ということにして。
最初と最後のナンバーがまぁ最高で、真ん中の、売れてるらしい曲の逆に売れてるっぽい曲が面白かった。
観た方にしかわからないんだろうけれども、セバスチャンが途中で、とあるバンドに加入するんです。
これがなかなか売れてるバンドらしいんだけれど、その、いわゆる「なんで売れてるのかわからなさ」が
なんか言いがたいくらいに、「受けるんだろうけど僕には受け入れがたいなぁ」というラインをついてくる。
世の中にたくさんいらっしゃるであろう「僕」宛に向けられた「受け入れがたさ」。
彼のピアノをだめに演奏させるためだけに作られたような楽曲でした。
なんでこんなのが売れてんの?っていう、ちょっとした羨望というか嫉妬というか、そういうやつです。
書きながら思い出しちゃうのがやっぱりあの名台詞「ドラフトが終わるまでは、さ。」
あれに支配されているのかもしれない「僕」たちは。
「夢」がじわじわと現実というか生活になっていくのに耐えられるかどうか、それが共感につながる。
この映画は一回りの季節の中での話なので、長い人生の中では凝縮された期間だと思うんです。
(焦燥の6年間の後の話、ということではありますけどね)
ちょこっと話を散らかしてみますけれども、ミュージカル映画って基本的な見方ってあるんだろうか?という疑問。
僕は「NINE」が好きで。
なんだかのきっかけがあってミュージカルの振り付けをした人に伺ったことがあって、
感情が高まると踊り、もっと高まると歌う。そんな風に教わったのである。
その時に、歌うように語るのではなく、語るように歌えばいいのであると言われていた。
歌うことにとらわれなくっていいんだよっていう教わり方をしたね。演劇にもそれはもちろん通づる。
で、それじゃなくって、ミュージカル映画のミュージカルの部分って、アレいったいなんなの?なんです。
突然踊りだすじゃないですか、クラスメートとか、喧嘩してたはずの友達が。
ストーリーの中に、そりゃ、ミュージカル映画を作ろうってんだからいくつか曲入れなきゃなんないから
このタイミングで曲がくるのはわかる。でも、みんなが盛り上がっていないところに曲は入れらんない。
だから、物語上感情は盛り上がっていなきゃなんない。
もしくは、盛り上がりはさておき、セリフで説明しちゃえ!って感じでセリフを歌詞にしてしまう。
そこでね、僕が思うんだけれど。ミュージカル部分が夢なんじゃないかなって。
現実には起こっていないことだと思うんですわ。突然みんなで踊りまわっている状況って。
いわゆる、リアルじゃない、状況。もしも、それが夢だとしたら、すっげぇ怖い。
ラストのあれは間違いなく妄想じゃないですか、オープニングのアレも、暑い夏が見せた白昼夢。
っていうか実際には秋の話だしね。
それを考えて空恐ろしいのは、ミアが自宅で友達に誘われて、パーティーに行く時のナンバー。
4人でスカートひらりヒラリ。帰りにはひとりぼっちでレッカー撤去。
もしあれ夢なら、友達も、いない。3人の色とりどりの服を着た友達を妄想していただけってことになる。怖い。
怖いので、僕の覚書のためのメイキングシーンを。
でもその、映画って本当に大変で。演劇もそうなんだけれど。
設計図の叩き込み方が違うんだろうなって思うんです。そもそも設計図を作っていないやつもあったりするけど論外で。
監督の頭の中にある設計図と、俳優の中の設計図。
また、映画とは違い短い時間で全部出しきらなくてはならないから役者の中には大体の設計図は入ってないといけない。
多分どちらも、その設計図から、情熱的にはみ出していくのはいいことなんだと思うんですけれど。
だいたいの大きな枠組みとしての設計図を、どのくらい知っている必要があるのか、
ということで、舞台と映画の違いがあるんだろうなと、最近映画をたくさん見るようになってわかってきたところもあって。
映画作るなんて、簡単には言えなくなっちゃうけれども、それでもあれをやろうっていう勇気の塊が
この世の中には数多在って。正気の沙汰じゃない。あんなの。あんなの作ろうっていう監督にはなれっこない。
でも、その力にはなりたいと思ってしまう、こう、ふつふつと、やっぱり当てられてしまう。
「ララランド」の素敵なところって、CGにほとんど頼らず、実際の撮影で撮ったところが多い。
マジックアワーのシーンも、何度も取りなおしをして、本物のマジックアワーで撮った(CGじゃない)。
という事だと思うんです。35mmへのこだわりとか専門的な事はわかんないんですが、
映画だってわかっているのに、スクリーンを超えてこっち側に飛んでくる情熱のようなもの。
そりゃストーリーには若干「?」ってところはありますよ。
夢追いの若い俳優が、車持ってたりパーティー行ったり。(そう考えると日本って貧しい国だなって思っちゃうけど)
そういう、「本当に困ってんの?」っていうところはありましたよ。(一応書いてみた程度のアラ)
はみ出てくる情熱を感じられる映画ってそんなになくって。
映画館で見てた時も、オープニングナンバーが終わった時に拍手してた人がいて。
やっぱり周り全体がそうかっていうとそうじゃなかったからその人は早めに拍手をやめちゃってて。
エンドロール前のナンバー終わりに、同じく拍手が出てきてたんです。
映画で拍手ってなかなかなくって。僕は「地獄でなぜ悪い」をレイトで見た時にスタオベしましたけど。
その時はお客さんが5人くらいしかなかったからできた。1人で行ってたから余計にね。
なんか、飛んでくる情熱がある映画っていう事だけでも見に行く価値はあると思うんです。
多分、監督が、作りたいものの情熱を語って、ようやく資金繰りができて、そしてできた作品なんだろなって。
でも「セッション」を作りたいと思っている時点でなかなか大変な野心の持ち主なんだろうとは思うんだけれど。
まぁとにかく、ララランドとっても面白かったと思うんです。
確かにストーリーに関しいてはね、ひどいと思うんだ。振っておいてお幸せに。ってのはひどいと思うんだ。
でも、だって、映画だもん。所詮映画じゃないか。って思うんです。
だから、ストーリーじゃなくって、映画を楽しむ。という気分で観に行けばいいんじゃなかろうか。
まぁ、でも、モノづくりに於いては、すごいもの見せられたと思うんです。
投げうって。大変な時間をかけて、複数回カットを分けてとってもいいところを1回だとか短いカット数でとったり。
緊張感を強いるような取り方になるんだろうけれど、それのおかげでスクリーンを超えてどんどん飛んでくるものがある。
ちょっとばかし、おかしくなくっちゃいいものなんて作れないんだろうな、って。
まだまだ、真面目さを捨てなきゃいけないというか、もしくは、真面目を超えていかなきゃいけないんだろうなと。
ウマがあったのかもしれないな、セッションの主人公もそうだったし、マイルズ・テラーもそうだったのかな、
と思うわけなんです、ただの真面目じゃだめなんかなって。まぁ、とにかく楽しい作品でした。
や、うんちく並べても仕方ないんだけれども、いちいちリズムに合わせて見得を切る姿をみるのもいいし。
細部を見ていけばいいんだと思うんです。
いま、このブログ書きながらセッションをもっかい見てるんだけど、怖い怖い。
というわけで、セッションもまたブログに書こうと思います。
あとは、ライアン・ゴスリングブルーバレンタインでも見ようと思ったけれども、
再び凹んでしまうわけにはいかないのでエマ・ストーンと一緒に出ているコメディの、ラブアゲインを。
セッション ラブ アゲイン