ハッピーアワー
朝起きて、余裕を持っているつもりでいたのに結局時間はギリギリになってしまう。
地下鉄を乗り継いで九条のシネ・ヌーヴォに。5時間越えの映画を見に行きました。
シネヌーヴォはそんなに大きな劇場ではないにせよ、6割方のお客様で埋まっていましたよ。
ロカルノ映画祭という映画祭で賞を取ったという、話題作。
でしたが、後日譚として、僕が関わっている映画関係の方々と飲んだ時、映画の畑で戦っている役者さんがみんな
この「ハッピーアワー」の滝口監督は図抜けた天才であるということを口をそろえて言ってらした。
「どこがハッピーなんだい」と言いたいストーリー展開でしたが、なんというか
何を言っても不毛な気になってしまうので、ささやかな感想のみさせていただくつもりで。
なぜかというと、きっと設計図がしっかりとしているから。という事に尽きます。
丁寧に、じっくりと時間をかけて、いびつな部分を排除した設計図。
なので、お話の内容とか、そういう部分って、気にしても仕方ないと思うんです。
が、完成系はパーフェクトではないです。やはりどこかいびつで。でも、人間だもの。
会話は映画というにはテンポが良くないし、実際のかしましい女性のテンポではないんだと思ったから。
でも、それが面白く見て入られたのだから、お互いの口と耳の間には目に見えない粒子が飛び交っていたのだと思う。
会話ができなくなってしまっている人たちが会話をする話、とでも言えばいいのだろうか。
ストーリーやテーマについてはなかなか僕は掬い上げにくい脳みそをしているみたいで、うまく言えない。
物語の肝となる根幹のストーリーは何かというのが、うまく見つけられないんです。
何かというと、純さんを巡る物語、と捉えて良いのかもしれなけれど。
その純さんの旦那さんに対して、最初には「どうにもおかしな人だなぁ」と思って見ていたんだけれど、
後になるにつれて、その人が少しづつ変化しており、最後には女性作家さんと同じ意見を持つまでに至る
(いわゆる肩入れするというか、共感するという状態ですね)。
なんとなく、見た方でないとわからないような書き方をしてしまっていてすみません。
主人公となる女性4人が4人とも、人間関係にある程度の生きづらさを抱えており、
それについて、語れると思うことを語り、語れないと思う事については黙る、そういう物語。
その中で、なんとか会話をしようと思う人や、そもそもがうまく話せない人、
そして、なんとか、聞こうとする人や、うまく聞くことができない人。
なんのことはない、僕らにも訪れる可能性のある生きづらい日常です。
言いたいことがあってもうまく言い出せない理由があって、それを言わないのはすれすれの矜持なのに、
それを高圧的に聞き出そうとするような人がいたりする。言わなきゃわかんないじゃないか、と。
耳を傾ける、ということができたらいいのにな、と。
人と人との関わり方について、僕が個人的に今考えを巡らせていることが、同じ方向を見ているように思える作品でした。
台本もよかったんだと思う、こういう映画を撮るために書かれた台本というふうに。
なんだかうまく言えないけれども。
そして、男性の目線からなのか、だんだんと、4人の女性を取り巻く環境を眺めていくにつれ、
そもそも、好きと嫌いという非常に単純な物差しでしか測れない僕自身がどうかしていると思うんだけれども、
最初は女性側がどうも好きだったんだけれども、そして、ちょこっと出てくる男性がどうも好きになれなかったんだけれど、
男性側がしっかりと向き合おうとしていたり、どうにか耳を傾けようとする態度をみせるにつれ、
女性が(ひとくくりに4人とも、というわけではないんだけれど)好きでなくなっていくんです。
あくまでも僕個人の感じ方の問題なんですが。
反省したんだから許してやってよ、そういうつもりじゃなくって誤解だったんだから、さ。
って思えるシーンがいくつもあって。なんというのか、混濁した感情がもぞもぞしていて、面白かった。
魔法は、桜子さんの息子さんと純さんとの邂逅。
あんな偶然があるものか。彼女と駆け落ちしようとしている少年と、逃げ出そうとする女性が同じ港で出会うのである。
ありえないタイミングなんであるよ。でも、映画では、それは僕はアリだと思っている。のです。
実写版魔女の宅急便で例えると、遠く離れたお母さんとお話ができるシーン。
あそこだけ唯一魔法がかかってるシーンだと思うんです。それについてはまた、そっちの映画のブログに書こうかと。
最近は僕の好みが、緻密な設計図で作られたもの、な気がするのです。
この映画はとんでもなく設計図が緻密だと思ったんですよ、そこまでくると、穴がない。
どこかに「?」が発生する時に、それを看過できないことがある。それが感じられないと、いい気がするんですよね。
「この世界の片隅に」とか案外「シン・ゴジラ」とかも。
ほんでね、ゴジラと魔女の宅急便を見比べてみると、なんか、パッケージが似てました。
だからなんだという話なんだけれどね。うまいこと言えないままだらっと書いていたブログがうまいこと落ちそうだ。
そんな事しか考えられてないんで、もう、ここまで。
そんなわけで。
僕の中で「ハッピーアワー」と「この世界の片隅に」の感想を書くことができたんで、
「シン・ゴジラ」の感想にも取り掛かることができるかもしれないという勇気を得ました。
ま、簡単に感想を書きにくいという、雰囲気が、作品からプンプンとしているもんですから。
その、最初の、設計図についてのことですね。穴があれば、そこから拡大していけるんですけど。
見た目、緻密に見えると、どうも、多角的な見方ができなくなるというか、もう、語れなくなっちゃう。
品揃えのいい雑貨屋さんに行った時にどうもゲンナリと物欲長くなってしまう感じです。
伝わるかしら?どうかしら?
そんな感じと混ぜ合わせてしまっても、どうもニュアンス取れないかもしれないんだけれど。
緻密な作品を見た時に、自分の「発見」めいたものをブログに書いても、なんかそれってあんまりチャーミングじゃないな。
そんな気になってしまうんですよ。しまっていたんですよ。
それならば、もっともっと深く調べて書く努力をすりゃいいじゃないかということになるけれど。
ちょこっとがんばって「シン・ゴジラ」の感想も、かいてみようかと思います。
シン・ゴジラ 魔女の宅急便
- 2016.12.31 Saturday
- 映画
- 03:46
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- by 白井宏幸